Sunday, September 10, 2017

日本の三如来とは?

日本の三如来と言われる仏像があり、長野善光寺・阿弥陀如来像、京都清涼寺・釈迦如来立像、京都因幡堂・薬師如来立像の三体を指す。
いずれの仏像も、天竺由来が共通点だ、いつ頃から言われているのか、誰が言い出したのか不明だが、各々の寺院で言い伝えられているらしい。

京都 烏丸松原
因幡薬師堂(平等寺)
京都因幡堂の仏像は初耳で、知らなかった、烏丸松原にあり、正式名は平等寺と言う。早速、出かけて見た、バス停烏丸松原の前が直ぐ入り口になっていて、分かりやすい。
コロのついた厨子の中に居られ
頭に緩衝用の頭巾を着けている
京都因幡堂 薬師如来像とは。
長徳3年(997)、橘行平(たちばなのゆきひら)が因幡国へ下向し、その地で病にかかるが、夢の中で「因幡国の賀露津(かろのつ)の浦に貴い浮き木がある。それは仏の国(インド)から衆生を救うために流れついたものである。それを引き上げてみよ」と告げられ、その地に赴くと薬師如来像があり引き上げられた。仮堂を造り像を安置したが、行平が都に戻ると、薬師像は自ら行平邸に飛来したので、行平は自宅を寺として安置。これが因幡堂の始まりで、行平は寛弘2年(1005)、因幡国司となり、のち因幡堂は栄えたと説く。行平がこの年に因幡国司となったことは『御堂関白記(みどうかんぱくき)』などによって史実であったことがわかる。「東の国の人々を救うためにやってきた」という因幡の薬師如来。病気平癒や子授け、安産の仏様としても多くの人々に親しまれているが、特に“がん封じ”のご利益があると言われ参拝客が絶えない。



長野 善光寺 本堂
長野善光寺は行ったことがない、御本尊は永久秘仏だし、模鋳した御前立でさえ7年に一度しか御開帳されない秘仏となっている。日本の仏教伝来公伝に伝えられる逸話にある仏像と言われているのがミソ。
模鋳の御前立
それも7年に一度の御開帳
長野善光寺の阿弥陀如来像とは。
『善光寺縁起』によれば、御本尊の一光三尊阿弥陀如来様は、インドから朝鮮半島百済国へと渡り、欽明天皇十三年(552年)、仏教伝来のおりに百済から日本へ伝えられた日本最古の仏像といわれている。この仏像は、仏教の受容を巡って崇仏・廃仏論争の最中、廃仏派の物部氏によって難波の堀江へと打ち捨てられたとされる。後に、信濃国司の従者として都に上った本田善光が信濃の国へ持ち帰り、はじめは今の長野県飯田市でお祀りされ、後に皇極天皇元年(642年)現在の地に遷座した。皇極天皇三年(644年)には勅願により伽藍が造営され、本田善光の名を取って「善光寺」と名付けられた。
昔からの秘仏であり、誰も見たことが無い。江戸時代偽物論議があり、1692年12月14日、敬諶が秘仏の善光寺本尊を検分・報告している『善光寺由来記』。それによると破損があるが、中尊は高さ一寸五尺(約45cm)で重さ六貫三匁(約24Kg)、脇侍は高さ一尺(約30cm)で重さ百七十匁(約0.6Kg)だったという。模鋳した仏像を御前立としてつくり7年に一度御開帳される。


京都嵯峨 清涼寺 山門
京都嵯峨野の清涼寺・釈迦如来像は何度もこのブログに登場している仏像で、日本中に模刻が広まっている。インド風の作りになっており、布製の内蔵も体内に収められていて37歳のお釈迦様を写したとされるリアルな釈迦像だ。
薄い衣を通して
体の線がきれいに出ている
日本中で模刻された
 京都清涼寺の釈迦如来像
紀元前5~6世紀の釈迦が存世中、古代インドの国王で熱心な仏教徒であった優填王(うでんおう)が、釈迦を思慕するあまり、釈迦の姿を彫刻させた。その像は『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』と呼ばれ、仏教徒たちの信仰を集めることとなった。平安時代中期の東大寺の僧・奝然(ちょうねん)は、中国・宋に留学した際に、インドから宋にもたらされていた 『優填王思慕像(うでんおうしぼぞう)』を仏師に精密に模刻させ日本へ持ち帰った。奝然(ちょうねん)は、これを本尊として京都の嵯峨に清涼寺を創建し、奝然(ちょうねん)没後に弟子の盛算により寺は完成、以来、この釈迦如来立像が安置されている。古代インドのガンダーラの仏像と似た縄を編んだような頭髪、ボディラインに張り付いた薄い衣の衣文、エキゾチックな深い彫りの顔には、当時の日本の仏像にはない異国情緒がある。また、胎内に布で造られた五臓六腑の模型が納入されていることからも「生身の釈迦として造られた像」と考えられる。これを手本として、鎌倉時代には「清涼寺式釈迦如来像」といわれる模像が日本各地で流行した。

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