Friday, May 12, 2017

定朝様の三阿弥陀像

宇治平等院
定朝と言えば、京都・宇治平等院の木造阿彌陀如来像(国宝)が有名であるが、実は木彫仏像づくりの革命を起こした京仏師の巨人でもある。
平安時代、末法思想が貴族の間に浸透し、阿弥陀信仰が盛んになって来るに従い、多くの寺院で仏像の需要が高まってくる。しかし、一木造りでは、大きな仏像を作るための巨木が必要とされ、一木造りや割矧づくりではこれら多くの需要を満たすことが出来ない。さらに、一体を一仏師で作るため、制作時間もかかり仏師の数も制限される。そのような環境で、定朝が完成させたのが、仏像の大量生産技法である寄木造り。10世紀頃までの仏像彫刻に多く見られた一本の木を素材とする一木造りから、定朝は、それまで無かった数本の木を組み合わせて作る寄木造りの手法を生み出した。この方法だと、分業で複数の仏師が同時に分担したパートの制作にかかれる訳で、大型サイズの仏像を含め、製作時間を大幅に短縮することが出来る。またパート毎に仏師を担当させるとその部分については、仏師のスキルも短時間で向上するので品質も高くなる。現代の製造工場の分業化とおなじである。定朝の工房は極めて大規模であったと言われている。
宇治平等院
常朝作 阿弥陀如来坐像
それを裏付けるのが、1026年8月から10月にかけて行われた、後一条天皇の皇后の安産祈祷のため造られた27体の等身仏は125人もの仏師を動員して作られたことが判明している。 藤原道長の庇護を受けたこともあって、定朝は仏師として初めて僧侶の位である法橋や法眼という高い僧位を受け、仏師界の巨人となった。
日本各地に定朝作と伝えられる仏像が残っているが、現存する確実な作品は宇治平等院鳳凰堂本尊の木造阿弥陀如来坐像のみである。この本尊は阿弥陀如来像の最高傑作とされる。穏やかな顔立ち、たっぷりとした頬、半眼の目、豊かな胸元など、これ以降に作成された阿弥陀如来坐像に大きな影響を与え、定朝プロダクションには大量の仏像注文が殺到した。このような阿弥陀如来坐像だが、特徴が類似した仏像が京都に残されており、これを定朝様式3阿弥陀如来像と呼んでいる。

すなわち、宇治平等院本尊、日野法界寺本尊、花園法金剛院本尊の3如来像である。
法界寺
定朝様 阿弥陀如来坐像
国宝の宇治平等院本尊 阿弥陀如来坐像は余りに有名で誰でも見たことがあるだろう。

日野法界寺は、醍醐寺から南へ少し下がったところにあり、親鸞上人の誕生の地である。広くない境内に阿弥陀堂と薬師堂だけが残っている。訪れたときには参拝者の姿もなく、受付で拝観料を支払うと、住職の奥さんが阿弥陀堂の扉の鍵をもって来て開けてくれた。
宇治平等院本尊に最も近いと言われる定朝様・阿弥陀如来像を独り占め、しばらくすると住職がやって来て由来を説明してくれる。好きなだけ時間をかけて眺めることができる。宇治平等院の本尊は何時行っても大勢の観光客でごった返しており、また仏像拝観の時間制限もあるが、ここは別天地。法界寺は日野資業の創建、日野氏は藤原氏の傍流貴族で、親鸞はその一族。この寺院には定朝作(多分常朝工房)の阿弥陀如来像(国宝)と阿弥陀堂(国宝)がある。地元の人達にはむしろ阿弥陀如来より、「日野のお薬師さん」、あるいは「乳薬師」として、人気が有る薬師堂(薬師如来像は秘仏)で有名だ。この薬師堂は奈良斑鳩にあった伝燈寺の本堂を明治時代に移築したものである。
法金剛院
定朝様 阿弥陀如来坐像

残る一体が京都花園の法金剛院本尊の阿弥陀如来像である。JR京都花園駅前にある平安時代初期の寺院で、待賢門院の開祖とされる、奈良唐招提寺と同じ律宗のお寺。花園駅は妙心寺へ行くのに何度も利用していたが、駅の真ん前にこのような古刹があるとは気が付かなかった。古くから名勝の地と知られる双ケ丘の東麓にあり、花の寺(蓮が有名)として知られてきた。本尊木造阿弥陀如来坐像は定朝様の形式であり、作者は仏師院覚と伝えられている。

定朝が宇治平等院本尊として余りにも美しい阿弥陀如来坐像を作ったため、以降、阿弥陀坐像は、定朝様式が標準とされてしまったのかも知れない。









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