Thursday, April 11, 2013

法隆寺宝物館の金銅仏

モダンな法隆寺宝物館
百済系請来仏
東京国立博物館には独立した建物として、法隆寺宝物館がある。 以前から気にはなっていたけれど、余り話題にされたことが無かったので、訪れたことがない。
前回のブログで紹介した円空仏展のついでに立ち寄ってみた。
法隆寺宝物館は明治11年に法隆寺から宮内庁に献納された300点あまりの宝物を展示している。
明治時代の廃仏毀釈運動で、奈良の寺院は危機に瀕し、貴重な古い仏像なども売りに出されたり、廃却されたりして、散逸していった。
法隆寺も例外ではなく、飛鳥、白鳳時代の宝物を維持できなくなり、宮内庁に献納してその保持を図った。
その後、国立東京博物館に移管され、1964年に宝物を保存するための建物として法隆寺宝物館が開館した。
止利仏師様式中尊像
とにかく、6-7世紀の作品群ばかりなので、保存が第一と考えられたため、公開日は週一日のみ、それも雨天の場合は閉館されたらしい。
その後、一般公開要請もあり、保存と展示の両方を目的として、平成11年(1999年)モダンな今日の宝物館が出来た。お陰で、何時でもこれらの貴重な宝物を間近に拝観出来るようになった次第だ。
山田殿像と銘のある
日本最古の三尊像
展示室は保存を主体にしてあるため、光量を制限しておりとても暗い。私のお目当ては、金銅仏である。銅で鋳造し金メッキを施した仏像のことだが、金銅仏には大きいものは東大寺大仏から数センチ程度の像まで、大きさは千差万別。 ここ法隆寺宝物館の金銅仏はいずれも小さく、10-40センチ位で多くは個人的な礼拝像として造られたと考えられる。

一階の第2室に金銅仏と光背、押出仏ばかりを展示してある様は壮観で、すべて6-7世紀の物ばかり。

止利仏師系像
仏像は6世紀の前半から半ば頃、百済から仏教が伝来し、金銅釈迦像が贈られたと日本書紀に記述されているが、実際には、この頃朝鮮半島から数多くの金銅仏がもたらされ、日本の仏像制作が始まり、多大な影響があったことが、この金銅仏を見ていると解る。

仏教伝来の初期に朝鮮半島から渡ってきた仏像も3体あり、面白い。
どことなく素朴であり、三尊像などは光背が一つでその前に釈迦像と脇侍が並び立つ形式で百済系だろうとされている。この形式がコピーされて後に善光寺式三尊像となる。 

童子系像
7世紀半ばには飛鳥様式から白鳳様式へ変化が現れる。有名な止利仏師の像が典型的な飛鳥方式だが、止利仏師仏は左右対称で、衣紋の端が三角形に流れているのが特徴。白鳳様式では、だんだん左右対称が崩れてくる。さらに隋や唐初期の仏像も入ってきて、新しいスタイルに変化してゆく。形や表現がみずみずしく伸びやかなになり、多様性に富んだ仏像が造られるようになる。 やはり、形式的な姿よりは、より人間的な表現が好まれるようだ。

童子系像
人間的な表現は7世紀後半から8世紀にかけての白鳳文化期に、特徴的な像・・子供のような顔と姿をした・・童子系小金銅仏制作が流行る。
童子系の像はいずれも顔が子供のように愛くるしく、姿も4等身程度に造られている。自宅に置いて眺めていたのかもしれない。
法隆寺宝物館の金銅仏は大きくとも40センチ程度で、ほとんどは30センチ以下が多い。飛鳥時代の豪族が自宅に安置していたものと考えられ、所有者の名前の入ったもの、作成された経緯や年号の書かれたものなどもあり、当時豪族間で仏教が広まっていたことを示す。
展示物165号の菩薩立像に、西暦651年7月10日笠郡(岡山県)の長が亡くなってので、息子2人でこの金銅仏を造ったとの記録が残っている。
日本書紀の仏教伝来に間をおかず、このような事が起きていたとすると、私的には仏教なり、仏像が以前から日本に入っていたと考えられる。

釈迦誕生像 摩耶夫人の袖から顔を出している





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