Wednesday, January 19, 2011

唐招提寺 鑑真和上


唐招提寺は薬師寺からすぐの所にあるので、薬師寺とセットで拝観するのがお参りのコースみたいになっている。
薬師寺東塔を見て唐招提寺の各堂宇を見ると、時代がつながった感じを受ける。
唐招提寺はその字から、ずっと「からいた鑑真和上の菩を弔う」の意味だとばかり思っていた。
実際には、「招提」とはサンスクリット語源の中国語で本来「広い」という意味で、そこから寺の意になったらしい。 だから直訳では「唐僧の寺」の意。 大体合っている。
唐招提寺と言えば鑑真和上である。井上靖「天平の甍」で有名だし、歴史の授業でも習ったので、誰でも知っている。
日本からの招聘要請に応じ、12年間の艱難辛苦、6回目の渡航でようやく来日が実現、その時には失明していた。
当時、日本には正式な授戒制度が整備されておらず、さらに戒律を授ける導師も不足していたため、きちんとした戒壇を設け、戒律の制度を定着させるのが招聘目的であった。 いわば官立の資格制度確立と国家試験官養成である。
これがないと、勝手に出家得度した僧侶(私度僧)が増え、課役免除などのいわば脱税者が増えて、社会秩序の乱れとなるのだ。

鑑真和上は、753年日本に到着して、奈良大仏殿にて、聖武天皇、光明皇后、孝謙天皇等に授戒をし、その他の僧侶にも具足戒を授けた。
その後5年間東大寺に居住。東大寺は国立仏教寺院のセンターであり、各国に建立された国分寺、国分尼寺の総元締めで、天皇の護国鎮護の中心であった。
鑑真和上は最終的に東大寺の大僧都(トップ)に任命される。

しかし、朝廷官吏達の授戒制度化は私度僧を減らして、税収を増やすことが目的であったことや、奈良の僧侶の中には、正式な戒律を嫌うグループも出てくるなど、鑑真を取り巻く環境は変化する。
東大寺大僧都も解任され、私寺、唐招提寺を仏教修行並びに授戒の寺として建立する。ほとんど国からの援助がなく貴族からの土地の寄進や、平城京にあった新田部親王屋敷の建物などから作られた。

中国から同行してきた如宝を中心とする弟子達が鑑真の意志を継ぎ、下野薬師寺と筑紫観世音寺にも戒壇を設け、地方でも授戒を受けられるようにした。ちなみに、東大寺とこの2つの戒壇は「天下の三戒壇」と呼ばれている。763年わずか9年間の日本滞在の後、鑑真は亡くなった。

鑑真和上像は有名だが、拝観できるのは、毎年6月6日の命日をはさむ前後3日間のみである。弟子の忍基が師の最後が近いことを知り脱乾漆で作らせたと言われている。
わずか80センチほどのお像だが、リアルで鑑真の強い意志が伝わってくるような迫力に圧倒される。 芭蕉も「若葉して御目の雫ぬぐはばや」と詠んでいる。
誰の想いも同じだ。北原白秋も「盲ひはててなほし柔らとます目見に聖なにをか宿しはまひし」と詠い、唐招提寺は鑑真和上の像を思ふこと切なりと書いている。

唐招提寺には数多くの国宝がある。
金堂:奈良時代の寺院金堂としては現存する唯一の建物
講堂:760年頃 平城宮の東朝集殿を移築したもの
鼓楼、宝蔵、経蔵
乾漆鑑真和上像
乾漆盧舎那仏像
木心乾漆千手観音像
木心乾漆薬師如来像
梵天・帝釈天立像
四天王立像
仏舎利器(白瑠璃舎利壺) などなど 他に重要文化財多数。

仏像巡りのつもりが、唐招提寺では鑑真和上の存在感が大きすぎて、仏像に想いが行かない。
今年の6月には又、鑑真さんに会いにゆこうと思う。

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